戦国時代の武将でもっとも合戦の勝ち数を上げているのは豊臣秀吉ですが、じつは勝率でもトップを取っています。
戦歴84勝8敗7分けですから、8割5分2厘という好成績。
とくに信長なき後は朝鮮出兵まで負け知らずの連勝を続け、その中には北条氏を追放した小田原征伐も含まれています。
大量の物資と人材を投入、相手を威圧して勝つ戦法は「戦わずして勝つ」と明言を残し、水攻めや兵糧攻めによる戦法こそ秀吉の真骨頂と取られがちですが、「戦わずして勝つ」以前はむしろ、激戦の最中、火中の栗を拾うがごとく、危険で勝利の確率が低い合戦に進んで身を投じていました。
その代表的な例が金ケ崎の戦いでしょう。
織田信長と朝倉義景の合戦では織田側が有利に合戦を支配していたものの、同盟軍だった浅井長政の裏切りによって挟み撃ちになり、織田信長がやむなく撤退する際、その殿(しんがり)の軍を率いたのが木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)でした。
殿(しんがり)軍は撤退しながら追撃の猛攻を交わし、主君を安全な場所に逃すという大事な役目。
それだけに命を落とす例も多いのですが、木下藤吉郎は見事に殿を務め、その後、信長が褒章として黄金数十枚を与えたと記録が残っています。
進んで火中の栗を拾う姿勢があったからこそ、その後の「戦わずして勝つ」戦法も取れるようになった、ということですね。
商売繁盛させる端緒をつかむためには、時には火中の栗を拾うことも必要です。